掃除は、汚れたところに適切な手順を踏めば、大概の汚れは取れる。
でも人というのは、簡単ではなく。
母が私の首元を偏見の目で憎しみや怒りや呆れや悲しみを纏った目で見る。
その瞳を見ると、私は嫌というほど過去を思い出す。
かつて、私が死と生の間でもがいていた頃の、あの跡。一時は、皮膚科でもらった薬で良くなったはずなのに。
たぶん内出血なんだろう。シミのようになっている。
ほとんど私は鏡をみることはない。
キッチンにあるアルミシートが反射して、顔や髪が跳ねていないかは確認できるが、4Kカメラのように首元まではくっきり見えない。
ただ時々みたとき、どんなに幸福を味わっていても、それを見たときに、その気持ちを無理矢理遮断される。
誇ってはいけない過去なのはわかっているから、何かの成功体験のように高笑いして言おうとは到底思わない。
けれど、自分なりに過去に苦しんだ末の思いだったことは、受け止めようとしていて、良くないことだけど、それほどどうしようもなく辛かったのだと、今なら少しは分かる。
でも大抵過去というのはどんどん美化されるか、泥のようにどんどん汚れていくもので。過去が過る度に、センチメンタルな気持ちになるのは私だけではないと思う。
そんな自分でもよく思ってない過去、もしくは、まだどういう気持ちで構えればいいのか分からない過去を、そんな瞳で見られたらどうだろう。
益々自分のあらゆる思考や未来で何かが起きても共有さえもしたくないと思うようになる。
母のそういう瞳が嫌いだ。
私が女の子がたぶん好きだ、と言ったときと同じようなあの瞳。
人は言葉では嘘をつけても、
瞳は嘘をつけないから。