晴れを待ちわびて

どこか成長したり、止まったりそんな自分の記録のようなもの。

今までどうやって生きてきたのか

小学生の頃のあのヒリヒリとした感じ

中学生になり、小学生ほど親密になれない感じ

高校生になり、同じく成長したはずなのに、自分が周りとの会話についていけないと感じたとき、迷子になったような3年間。

 

学生から社会人へと扉を開いたとき、

理不尽なことがあったとき、

できないことをできるまで努力したとき、

 

乗り越えたものと乗り越えられなかったものがあるはずなのに、今の私にはその手応えがない。

ただなんとなくあり薄いガイドラインの線を自分で引いてきた気がする。

 

ある時は自分の人生だと空気が澄んだように感じ、ある時は、他人の人生を歩んでるのではないかと思うほど、息が詰まる。

 

 

大事だったことも気付いたら忘れていたみたいだ。

小学生か中学生の頃、帰り道で雨なのに傘をさしていない子供がいて、私は傘を貸した。或いは、自分の上着を貸したかもしれない。

 

それから顔を合わせるようになったはずだけど、その子が大きくなり、同時に私も大きくなりながらも、話したいと思っても、

大きくなればあの出来事もさほど重要ではないのだろう、と自分の中で決着をつけてしまい、いつの間にか話せなくなったような記憶がある。

公園のベンチで座って、来るはずもないその子供のことを考えて、なんだかボーッとしていた気がする。

 

きっとそんな小さい頃に起きたことなんて記憶にないはずだし、私ですら大切な記憶だったはずなのに、つい最近まで思い出せなかったのだから、記憶が交わる瞬間などないと思うが、その子が元気に過ごせていることを願う。

顔も名前も忘れてしまったけれど、妹がいなかった私にとっては、そんな些細な出逢いがとても嬉しかったのは間違いない。

 

あの頃、今よりも強く、

雨に打たれている子を見ると、放っておけなかったのを思い出す。

それは自分の心が雨が降り注いで居るなかで傘もなく、ただただ雨に当たりながら過ごすしかなかった心情を思い出してしまったからだろうか。

 

今は私が思い出せないあの頃の思い出をボーッと探している。ほとんど空白のパズルを前にして、虚しさよりもただあった記憶を見つめている。

2026年

私にとってこのホームページとは、自分を表現する場所だった。そして、誰かに慰められ、

小説家になるためにこのブログが何か役立てば良いと思った。

正直なところ、私はそんな野心と欲を持っていた。

 

でも今は見られる数やいいねより、あの頃の私、そして今の私が過去になる時の感情が詰まっているものを見れることが私にとっては宝だ。

 

幼い頃からあらゆる衝撃があった。

数えきれないほどの。

そしてその時代に生き抜くために術を身につけた。でも成長すればその生き抜く術は変わる。

だが、それに気付くまでに多くの時間が掛かった。

 

5才ほどの子供が誰かに助けてと言えるほど言葉が追い付かない。ロールモデルもいない。家族はみんな今を生きるのに必死だった。

 

 

もしタイムスリップが出来たら、ただあの小さく泣いても喚いてもはしゃいでも走っても良い年齢だったわたしに、抱き締めたいと思っていた。

「未来の私」や「これからなんとかなる」だなんて言葉は現在を生きて、明日も見えない私には何の効力もないどころか、

果てしなく続く人生=苦しみが続くと認識するだろうから。

ただ今は、辛いという言葉で表すことは出来ないほどの荒波と暗く深い地下に長年閉じ込められるであろう私を見守りたいと思う。

 

10代の頃、社会の荒波に揉まれたとき、

病院へ通うのが当たり前になったとき、

私はどうやって日々を生きていたか、ほとんど記憶がない。

ただ今へと繋ぐこの身体があるということだけがわかる。

 

10代の辛さで悩もうが、終わったことに苦しもうが、「苦しいのならそのまま苦しくて良い」と思った。きっといつかその苦しみも少しずつ柔らかくなるだろうから。

無理に苦しみを絶ちきる必要も、ポジティブに生きる必要も、予定だらけのスケジュールを入れる必要もない。

 

出来ないことが多くても恐れることはない。

誰しも出来ないことから始まるのだし、

始めてすぐに辞めても良い。

始めたその一歩が素晴らしいから。

 

夜が眠れずに朝から寝ても良い。

だって眠れないのだから。

本人が一番辛く、どうにかしたいとあれこれ試しているはずなのだから。

 

正しいことはある。夜は寝るべき、スマホは寝る前に見ない方が良い。確かにそう。

 

でもそれがうまくいかないことを責めなくて良い。あくまで、そうした方が良いという話で、それが出来ないことで「自分は正しくない人間だ」と思わなくて良い。

 

ただ責めてしまっても、責めた自分が悪ではない。必死に生き抜くために、自分自身が懸命にしている証拠だから。

 

SNSをやってもやらなくても良い。

 

個性的な人物にならなくても良い。

ただ毎日呼吸をして当たり前のように生きている、それだけで私はとても頑張って生きていると思っている。

消えることのない自分の努力

私は就職するときから、ある程度長く勤めて、

職場を変えても2、3度だと考えていた。

管理職よりも現場に居たいと思っていた。

 

私は長い間、ある一定の成功やキャリアを築くには、身体がヒートアップされてしまうような技術を身につける時間、つまり労働時間が必要だと思っていた。

 

残業しても帳消しにされるのが普通で、

法律で定められているような働き方が通用しない場所が当たり前なのだと、数ヶ月して分かった。

 

出勤が8時にしても、8時30分にタイムカードを切るのが当たり前。ご飯が10分程度で食べ、すぐに厨房に戻るのが当たり前だった。

 

 

それができなくなったある日から長いこと自分を責めた。どうしてみんなが一生懸命に当たり前にできることができないのか?

 

立ち止まって気づいたのは、

その当たり前が当たり前ではないということで、そこに適応できなくなって身体に異変が感じたのもおかしくないことだと気づいた。

 

風邪を引いていても、出社するのが美徳という価値観が未だあるように思えるが、

身体の疲労は急に訪れる。例えなんといわれようと自分の身体でしか人生の道を歩めないのだから。

 

身体がほとんど壊れかけていたとき、

長年お世話になっている恩師に言われたのは

「休める制度があるならどんどん使うこと。休むことは悪いことではありません」

 

当時はそれでも休むことが怖くて出来なかったが、今ならわかる。

 

何故これぐらいのことができないの?

みんなこんな残業をしている

 

これはみんなができることではないし、

社会で生きている私たちには自分と社会の中の狭間で生きていて、中々簡単にはできないことだが、自分を大事にしてほしい。

 

自分が健康であれば、少しでも長くしたいことができるはずだ。

 

時折あの選択を後悔することもある。

でもあの時はそれしかなかった。

情熱を燃やすほど夢中になれるものに囲まれた数年間は幸せだった。

 

その中で悪い人も沢山いて、

私に攻撃をしたが、私はその人たちよりも遥かに笑顔で幸せなのは確かだ。

 

料理本を少し整理した。

今までありがとうという気持ちを込めて。

私の中で決してあの時の努力が消えることはない。だからこそ手放すことができたのだ。

段ボールに仕舞ってあるあの頃

実家には段ボールに厨房靴で2足大事に保管されている。

私にとって、調理服とは、厨房靴とは誇りだった。夢中になり心臓を高鳴らすものの制服だった。

包丁で材料を刻みながら、鍋で調理しながら、その熱い取っ手を軍手で掴んだあの時も。

 

厨房靴の裏を見ると何処かだけ擦れていた。

調理服には、ソースが散った。

包丁は使えば使うほどいつか切れなくなる。

 

それが全て一生懸命生きている証拠だった。

 

1冊でびっくりする値段のする料理本をいくつか買った。休憩時間に常に読んでいた。

でも理解したいのに全く頭に入ってこない日々に怯えた。

気持ちとは裏腹に上達しない自分がもどかしく、年齢の近い先輩も同期もその厨房にはいなかった。

 

自分で買った調理本は、余りに専門的すぎて、きっと使うことがないのはわかっていた。

あの厨房靴をもう1度履いて、あの時とは違う分厚さの調理服を着たとき、なんとも言えない安心感に包まれたというのに、

数日で私は耐えきれなくなった。

 

もう私はこれを着れない。履けない。と分かった瞬間が確かにあったが、それをつい最近まで記憶の奥深くに隠していたようだった。

 

今更見つけたあの気持ち。

 

自分で別れを告げたのではなく、

年齢による疲れでもなく、

ゆっくりと私を蝕んだ何かによって、

私の4年がフッと埃を吹くように消えた。

 

もうこの服を着れないんだと、

脱いだ瞬間、あの日、もう戻らない場所を名残惜しくも、早く離れたくて、自転車を漕いだ。

 

もう自分が身体的に戻れる状況ではないことが自分でよくわかる。周りには復帰することを言われたりもするが。もう無理だと認めざるを得ない。

 

演劇部の次に夢中になれるものだった。唯一。

 

もう一区切りつけなければならないのに、

私はまだあの頃の青春の結晶の入った段ボールを開けられないでいる。

そしてその料理本も埃が被ったままだ。

 

愛

数年前、恋をし、成就した。

夢にまでみたとよく言うが、私はその何倍も夢にまでみた。

一方で、私は一生片想いするか、されるかで終わると思っていた。

 

人生は分からないものだ。

 

とても短かった。

1ヶ月が経つ数日前に別れを切り出された。

 

でもその関係が続いてる間は、頑張る力、生きる活力があった。全てが楽しかった。同時に不安でもあった。

 

愛とはロマンチックで、お互いに忍耐力があり、話し合いのできる物事だと思っていたが、「価値観の違い」という言葉の意味をそこで初めて知った。

 

私が空想していた愛とは違った。

もしかしたら私が偶然そんな人と出会わなかったのかもしれないが。

 

私には深く刻まれた傷があった。

長い期間、空っぽになっている空間が多すぎた。

 

それに気づいたのは、大抵相手が気になっている人とうまくいかないときに私が相談に乗り、その優しさで弱いところを保護した安心感で、高揚し、好意を向けられることばかりだったことに気づいた。

 

つまり、対等な関係ではなく、

冷静な状況ではないところにやってきた光なのだろう。

その暗闇を照らせばもう必要がないのだろう。

 

私は何もかも焦っていた。

同年代とは違い、動きたいのに動けない身体と暗く塞がった心、辛さだけが彷徨う環境。

 

愛の素晴らしさも感じたのは事実だが、

その時、利用されたのだ。と気付き、私は人を愛すること、愛し始めることが怖くなった。

 

それは恋愛だけではなく、人を信用することすら怖くなってしまった。

 

相手は、別れて、数日後にはもう目移りしていた。私と関係を切るのではなく維持することを望んだ。私もそう同意してしまったのだからそれは私も悪い。

 

でも、すぐに見つかるほど、相手は私の良い性格(優しさ)だけが良かったのだと気づいたとき、全ての何かがゴミ箱に投げ捨てられた気分だった。

 

私の人生や考えは一夜や数ヶ月話しただけでは理解しがたく、また難しい。

数年話してるカウンセリングの先生に、ようやく心を開いたところだ。

 

 

愛は人を豊かにもするが、人をより傷つけると気付き、私は誰かを愛することが怖くなってしまったようで、しばらくこの悩みが霧のように存在している。

 

頼れる親族も、友達も居ない私は、

このどうしようもない孤独と孤高に闘うしかないようだ。

 

時々朝食を一緒に食べるような友人が、恋人がいたら、どんなにいいだろうとも思うのに。

 

 

忘れていた古傷と新しい汗ばんだ掌

ずっと闘病していた祖母が少し前、他界した。

その少し前に姉に子供が産まれた。

ずっと祖母は姉の子供を見たいと言っていた。

 

そして、その後祖母は亡くなった。

亡くなった日の翌日に実は姉の子供に会いに行く予定だった。病院を訪ね、会話をして、子供と会う日だった。

 

 

何度病に掛かっても、食事が点滴から得るものしかなくても、生きていてくれた。

きっと祖母は母体と赤ちゃんを守ってくれたんだ、と悟った。

 

朝5時。急に母から電話が掛かってきて、

「おばあちゃんが危ないから、支度をして」と言われた。寝ぼけた真っ白な頭。

思考停止しながら、必要なものをカバンに詰めていった。

薬、財布、充電器、替えの服や肌着……。

まとめ終わったあと、30分後ぐらいだろうか、

父から電話が来た。

 

「ばあちゃんが亡くなった。多めに用意して、用意が終わったら連絡して」

 

そう告げられた時は、実感がなかった。

荷物を詰めなおしながら、まだ整理しきれない浮かびきらない、名の無い感情に意識を持っていかれ、ボーッともした。

 

いつもは寝てしまう車中。

一睡も出来なかった。父は運転しながら、母と色んな話をしていた。私は懸命に聞いていた。

 

閉まった病院。電話を掛けると、開けてくれた警備員さん。霊安室に初めて行った。

もっと暗いと思っていたと父が声を漏らした。

 

部屋は明るかった。でも顔には布が掛かっていた。現実が、少しずつ迫ってきていた。

触っていいのかわからなくて、色んな話を聞きながら、祖母を見た。

 

そして少し落ち着いたとき、

「触れていい?」と聞くと、「いいんだよ」と言われて、掌に触れた。

 

冷たくはなかった。硬くなった手をぎゅっと握った。先ほどまで生きていたからだろう。温度差で、汗ばんでいた。

 

感覚が残っているわけではなくて、

記憶として残っている。

 

私は左手の親指と人差し指に柔らかい場所を、料理して怪我したことがあるのだが、

気圧や季節の変わり目でない限り、ほとんど傷まなかった傷が痛くなかった。

痛くなる度にあの記憶を思い出す。

 

わからないけど見えていると信じて、

スマホのフォルダーから綺麗な桜の写真を見せた。祖母が好きな桜。そして姉の子供の写真。

 

できる限り耳元で、話した。

できる限り目元で、見せた。

 

私が最期に会ったのは確か夏ごろ。

その時の祖母は入れ歯をとっているのもあったが、右も左も脳梗塞になって、話せなくなっていた。口を動かして何か言いたげだった。

 

会話は通じなくても、わかるよ。わかるよ。と伝えた。ばあちゃんの漬けてくれた紫蘇入りの梅干しすごく大好きなの。元気じゃないけど、元気だと嘘をついた。

その時、目が潤んだのがわかった。

 

私がしているマスクや自分がしているマスクを外そうとしていて、私の顔をちゃんとみたい、

自分の口元を見せて、会話をしたいのだろうと思った。

だから少しだけ見せた。でも何か風邪をうつすわけにはいかないから、マスクを戻した。

 

何度も私のTシャツの生地を掴んで引き寄せた。凄く強い力だった。

 

そのあと姉が行った時はもっと元気だったみたいだ。一言でよかった。会話をしたかった。

 

毎年お盆に、お正月に、行っていた場所に、

おばあちゃんはもういない。

 

数年後にはもう行けなくなるんだろう。

 

会いたい。物理的に会えないのは分かっているから、手を合わせて、じいちゃんやおじさんと会った?と聞きたい。ずっと会いたい会いたいと言っていたから。

 

ばあちゃん、あの時、

私を力強く何度も何度も引っ張った時、

何を言いたかったの?

何か伝えたいことがあった?

 

時折、普通の生活をしていても、

ソフトクリームを食べて、外を眺めたとき、

映画を観終わったあと。

たくさん焚いていた線香の強い香りが上着から香ったときも、思い出すんだ。

 

あの日はもう亡くなって少し経った後だったけど、ポロポロと泣いた。線香の香りのするジャケットを抱き締めた。

御遺骨の入った骨壷を抱き締めたあの感覚で。

 

そして自分の太ももを強く叩いた。悔しかった。何がかはわからない。ただ悔しくて悲しくて泣いた。本当は泣き叫びたいほどだった。

拭っても拭っても、涙は止まず、手は涙で溢れていた。

 

駆けつけたあの日、本当は霊安室のご遺体を抱き締めたかったけど、それは失礼かと思って、

ある時、祖母の家に祭壇が作られた時、母に「御遺骨が入っているあの骨壷を少しでいいから抱き締めても失礼じゃない?すぐ戻すから」と聞くと、「いいんだよ。抱き締めてあげて」と言われて、両親が出掛けたあと、抱き締めた。ぎゅっと抱き締めた。

 

その感覚を時折思い出しては、会いたくなり、抱き締めたくなる。

 

こんなに想っていたら、心配させてしまうのに。ごめんね。ちゃんと生活はするけど、まだ、まだ想わせて。

 

 

 

キャレット

仲の良い人に、よくいわれることがある。

 

「私が海京の居場所になる」

 

凄く嬉しい言葉なはずなのに、どんどん響かなくなっている私がいる。

 

私は恐れている。

絶対に、永遠に、と発する人の大半は、

何れ私の元から消えていくことを。

 

その人が何気なく言った本心の「永遠」が、

私にとっては過ぎ去ったあとも、何年も使い古したタオルに僅かに残る汚れのように、微かだけど、ある時に私を強く強く締め付ける忌々しい言葉の塊になってしまう。

 

私は考えすぎてしまい、気軽に永遠だとか、絶対だとか言えなくなってしまう。その場で安心させる言葉がそれだとわかっていても、その人の望む答えが「永遠に傍にいること」ではなく,「一時でもそんな言葉をくれる人」だとわかっていても。

 

確かに存在する消えない居場所など、

あるのだろうか。

私にとっての居場所は、未だにわからない。

 

所謂抑うつ状態がひどいときは、

自分の家ですら、自分の家でない気持ちになり、怯え、人の声や笑っている幸福の声ですら怖くなる。

 

一人暮らしをして最初は、ご飯がおいしかった。でもいまは、料理をすればするほど下手になっていく、というより、

自分が好きな味が減っているように感じる。以前美味しかったものが、同じ調味料でも、味があり、白米を食べれるが、楽しい食事ではないことが増えた。

 

 

私は当たり前にご飯が美味しいとか、外へ出ていくのが今よりも困難になって、

今でも世の中の外側にいると、なんなら、奥深くの闇の底にいると嫌というほど、夢や感情やサイバー上で解るのに、

戻るのが困難な場所へと飛ばされてしまうだろうか。

 

自分や世の中に対して、

余りにも綺麗に撮す8Kカメラほどの敏感な気持ちが消えて、少し画質が荒かったあの頃に戻れたら、それなりになんとかこの世の住人として、笑っていれたのだろうか。

消えない跡、その瞳。

掃除は、汚れたところに適切な手順を踏めば、大概の汚れは取れる。

 

でも人というのは、簡単ではなく。

 

母が私の首元を偏見の目で憎しみや怒りや呆れや悲しみを纏った目で見る。

その瞳を見ると、私は嫌というほど過去を思い出す。

 

かつて、私が死と生の間でもがいていた頃の、あの跡。一時は、皮膚科でもらった薬で良くなったはずなのに。

たぶん内出血なんだろう。シミのようになっている。

 

ほとんど私は鏡をみることはない。

キッチンにあるアルミシートが反射して、顔や髪が跳ねていないかは確認できるが、4Kカメラのように首元まではくっきり見えない。

 

ただ時々みたとき、どんなに幸福を味わっていても、それを見たときに、その気持ちを無理矢理遮断される。

 

誇ってはいけない過去なのはわかっているから、何かの成功体験のように高笑いして言おうとは到底思わない。

けれど、自分なりに過去に苦しんだ末の思いだったことは、受け止めようとしていて、良くないことだけど、それほどどうしようもなく辛かったのだと、今なら少しは分かる。

 

でも大抵過去というのはどんどん美化されるか、泥のようにどんどん汚れていくもので。過去が過る度に、センチメンタルな気持ちになるのは私だけではないと思う。

 

そんな自分でもよく思ってない過去、もしくは、まだどういう気持ちで構えればいいのか分からない過去を、そんな瞳で見られたらどうだろう。

益々自分のあらゆる思考や未来で何かが起きても共有さえもしたくないと思うようになる。

 

母のそういう瞳が嫌いだ。

 

私が女の子がたぶん好きだ、と言ったときと同じようなあの瞳。

 

人は言葉では嘘をつけても、

瞳は嘘をつけないから。

 

半分、普通で、半分イカれてる

長年生きていた家から離れた。

自分の家を手に入れた。

自分の時間軸でご飯を食べる。家事をする。テレビをみる。趣味に時間を費やす。

 

長年居た場所からの適応はかなり時間が掛かった。引っ越して2、3ヶ月は、どこかしら具合が悪くて、熱はでないのにだるくて、食欲もなくて、ご飯を作ることさえ出来るかギリギリだった。

 

驚いた。自分の身体の弱さに、心の弱さに隠れていた私の身体の弱さ。

心もまた何の音も鳴らなくなった瞬間、世界はカラーのはずなのに、自分には一色に見えた。黒でも白でもない。立体さも違うのに、全部が同じなのだ。

 

実家を離れても尚、私には苦難が降り注いだ。

家族と離れたかった。自分が辛いとき、もう何も聞いてほしくない。具合悪くても自分で静かに自分のペースで無理せずに治していきたいのに、経過を聞かれると強がってしまうから。

 

離れたはずなのに、心の距離感はどうしたらいいかわからなくて戸惑うことが多い。

子が親元を離れて、一番悲しむのは親だろう。一番心配なのは親だろう。そんなことは自立するかなり昔からわかっていた。

 

巣から旅立つ、姉や兄に対する寂しさの瞳や背中を見てきたから。どう振る舞えば、両親が悲しむ割合が減るのかずっと見てきた。

どうすれば、少しでも「哀」という感情を減らせるのか、いま思えば、あの頃、ずっと家族の中での負の感情を減らそうとしていたのは私だった。

 

私に冷酷な心があれば、たぶんある日突然消えていた。でもそれが出来なかったのは、私が消えたあと、果たして家族は家族を支えることが出来るだろうか?

 

父と母はあれ以上に踏み込んで話すだろうか?

父は母に押し付けすぎないか。母は嫌なことは嫌だと言って行動できるだろうか。

姉は兄との関係を修復できるだろうか。自分だけが傷ついてるといわずに、周りも傷ついてると心の底から思えるだろうか。

ありのままの傷ついた自分を大切な人でいい。さらけだせているだろうか。

 

兄は姉と話せるだろうか。ちゃんと母のことを見てるだろうか。母から発せられたことが全て本当であると思ってしまわないか。効率、資産のことばかり気にして、自分の中の心の富を蓄積できるだろうか。

 

そう考え始める時点で結論は決まっていた。

無理だった。

 

末っ子なんて、甘えさせてもらって何の苦労もしてない。これが世論。

長男、長女がいつだって辛い。これが創作の揺るがないもの。末っ子は我が儘なことが多い。

 

誰だって苦労している。

けれど末っ子は誰よりも先を見ているから、自分の気持ちよりも家庭を安定させる方法を影で考え、支えているのに。

 

誰も知らない。

 

姉や兄が進学したから私が行くことを早く諦めたことも、母が病気になり、小さい頃甘えることができないと悟ったこともどうでもよかった。どうしようもない運命だから。

 

だけど、家族の微妙な綱を支えているのは私だけという事実が一番辛い。

 

話しにきてはいる。姉は兄は。

でも当たり前だがいない間に問題は起きていて、それを話さなくなっていく。それを私が兄や姉に言えたらいいのにな。

言えない。何でだと思う?

 

姉は自分が一番辛かったと泣く。

叔父からお前が母親代わりになれといわれたあれから辛かったと目の前で泣いた。

何をするにも間に挟まれる人。母に似た優しい性格と父に似た頑固で強がるところ。本当は脆くて壊れそうなのに、いつも切れそうなロープの上を綱渡りしている。

 

兄は自分を抑えることができない。

自分の意見だけ述べて、人の意見を聞く振りをするけれど、言うことを聞かず、その割にできない約束もする。自分を大きく見せる。

お酒が強いだとか、知識が豊富だとか、勤めているところの自慢も。

誰も大きく見せなくても兄が立派だと知っているのに。

 

実家を出て、私は半分普通になった。でも半分イカれている。

 

病院に入院していたら何かしらの治療方法を先生から伝えられ、リハビリしたり、病院のスタッフの方や看護師さんと関わりながら治していけるだろう。

 

でも家にいる場合は?外傷もなく、心の病気だと言われたら?月1度の通院。薬の服用。カウンセリング。じわじわと状況は変わる。変わっていくけれど、自分の中でようやく1段階変わったときにはもう外の世界は数年経っていることなんてザラだ。

 

思考や行動は大人らしいと言われても、

当たり前に働いて、給料日を楽しみにして、貯めたお金で旅行へ行ったり、少しいいジーンズを買ったり、したいのに。

 

私は心の病気でも、たぶんわかりにくいタイプなのかもしれない。

ある意味神経質すぎて計画を立てすぎたり急かされて辛くなるのは少し行き過ぎだが、

それ以外はなにもないように見えるのだ。

 

ただ真面目でしっかりもの。

 

これだけ。個性があるようでない。半透明。

 

進み方なんて歩くだけなのに、余りにも見えない壁が多すぎる。

家族に過去のトラウマ。昔、パートのおばさんからいじめを受けてあれ以来、何の罪もない人まで、その瞳や顔を見るだけで自分に悪口を言うんじゃないか、変な目で見られるのではないかと怯える。

自分の家にいるのに、マナーも守っているにも関わらず、ある日突然、ドアを叩かれて、叱られないかと恐れおののいている。

 

早く当たり前に歩ける人にならないといけないのに、先生は焦らなくていいという。

でも世間は甘くない。休んでいれば、「いいね休めて」と細い目で見られる。

今こそ言われなくなったが、でも、

「心の病気なんてわたしだって持ってるし、ちょっとしたことでつまずくなんて、弱すぎない?」

そんな風に書いているコメント。

 

世の中はいかに世が変化したか声高らかに言う。

でもそれが大声であればあるほど、事実とは真逆だったりする。

長年の偏見や根付いた心理状態というのはたった数年で変わらないのだ。

変えるために発信も必要なのもまた事実だが。

 

今は余りにも1人の声が大きい。

それで表面化する問題もある。それは良いこと。

 

でもそこまで変えなくてもいいことを1人の発言で簡単に変えてしまう。

 

世の中は、一体、これからどんな形になっていくのだろう。

 

年金や国のことも心配だが、

益々私たちは、辛い何かを浴びていく時代になった気がしてならない。

 

果たして私は、過去の出来事が混ざった悪夢から目覚めたあの恐怖を味わわなくて済むだろうか、。

誰かに怯えすぎる気持ちと、何かに挑戦するときに身体が動かなくなるなんてことを体験せず、生きていけるだろうか。

 

1日でも早く、懸命に走っていたあの頃に戻れるだろうか。当たり前のことを当たり前に出来て、ホッと出来る日は来るだろうか。

 

 

すれ違い、手を繋げそうなところで離れていく

家族と分かり合えると、腹を割って話すことがある。

その時は、救われるように大泣きし叫び楽になる。

 

それで終わりなはずなのに、

その感覚は間違いだったと間違いなく数週間の間で知らさせる。

 

些細なことだ。

 

例えば今引っ越しをしようとしているが、

昨日までは「引っ越しを手伝う。ココに買いに行こう」と言った人が、

次の日には「私の休みをアテにしないで」と言う。

 

その度に、裏切られた気分になる。それをわかってだろうか。

何度も言われた。

 

「ドラマや映画のような家族なんていない。期待するな」

 

「人に期待したら、してもらえなかった時落ち込む。だからやめなさい」

 

確かに正しい一面もあると思う。

だけど、それはどこか「ドラマや映画のような家族」を成立できないと暗に言っているようで。

 

兄と電話する度、私はホロリと泣いてしまう。

これは防げないのだ。自然と涙が出て、辛い気持ちを打ち明けたくなる。

 

でもどこか私たちは価値観が違って、すれ違う。

 

自分が聞いてほしいことを「その話はしてない」「そんな話を聞きたいんじゃない」と言う「その話」が私の一番辛い話なのに。

 

姉や兄に助けを求められない、結果母に話す。

私は一体、母以外の味方をどう探せばいいのだろうか。

 

母がいつか老人ホームに入るか、亡くなった頃、

私は生きているだろうか。

 

私は一人暮らしをする予定だ。

母や兄からは連絡は返してほしいと頼まれている。

 

これは至極当然のことだと思う。

 

でもこれまでの家族からの幾度とない仕打ちや束縛を受けた私は、

せめて1か月、何も連絡せず、私が連絡するときだけでいいから、

何も聞かず、何も言わずにいてほしいと切に願っているのに、

それすらも叶わないのか。

 

今の状況が悪いのは分かっている。

 

起きるのは昼だし、一日スマホかテレビで映像作品を見ている。

外へもほとんど行かないし、人とも会わない。

 

分かっている。

 

鬱だからと言い訳にしている部分があることぐらい。

周りから見たら怠慢だろうな、そう思われているんだろうなということぐらい。

 

でも今まで一生懸命体力以上の走りをしてきた。

心も体も朽ちて、役に立たなくて、そこまで酷使してきたのに、

だから休みたいのに。誰からのアドバイスももらわず己で考えて、踏み込みたいのに、

どうして家族というものはこういうタイミングを待ってはくれないのだろうか。

 

「何も言わないでくれ」と言った時、兄が電話口で泣いていた。

微かにそんな音を聞いた。

 

「そんなの兄妹っていうのかよ」と呟いた気がする。

 

私達、きょうだい、兄姉私は特殊なのだ。

お互いに支え合える時などほとんどない。

己の身体と頭で生きてきた。

 

家族や姉兄のするほとんどのことが私の精神的状態の良くない方向と一致する。

ほとんどすべてが逆なで状態なのだ。

 

抑うつ状態になって、自分が感情をコントロールするのではなく、

感情に翻弄される1日、1日の繰り返しなのだ。

 

その中で見栄える自負は、辛いことの芽吹きでしかなく、

いつも心では泣いているか、ビンタをされたようにヒリヒリしている。

 

このところ、おかしい。

 

頭がボーっとして、聞かれたときに何か答えたくても、

言葉が全く思いつかない時がある。

 

問い詰められるとそれは悪化する。

言葉と言う言葉が自然にもでてこない。浮かびさえしない。

 

時折、心労が増すときは心臓が少しだけ痛くなる。

 

分かっている。家族の思うように生きれれば、治すために前を向けば、

みんなが安心することぐらい。そうすれば、本当の意味で自立できることぐらい。

 

家族の思うように生きられていない私など、

価値などないとさえ思う。

 

兄と電話を切った後、強く死にたいと思った。

 

いつもただのんびり過ごしているように見える私は、

思い出す記憶は叱責された記憶とできなかった過去の負の遺産。

焼き付く記憶は叱責と裏切られた記憶とわかってくれないじゃないかという気持ちと

なんで私こんな人なんだろうという自分への信頼度が下がる記録。

 

唯一と言っていいほどの親友が居る。

その親友に話していた数年前まで改善策はいくつも提示された。

 

でも今では、「俺から言えることはあんまりないんだけど……」という言葉が多くなった。親友を責めているわけではない。

 

ただ私は悟った。

 

「あぁ、専門の先生でないと、いやその先生すらもどうしようもない奥深くのずーっと奥深くのところまで来てしまったのか」と。

 

一人暮らしをして、私は精神状態が良くなるのか、

それとももっと悪化する一方なのか。

 

ただただ不安なだけだ。

一流になれなかった人生

今の時代、料理人がフランスやイタリアで修業していた人は少なくない。

むしろ時代が進むとともに増えてきた。

 

そんな話を聞いたりする中で私は都会でも田舎でもないような場所で育ち、

料理とはそれほど遠くなくでも近くない環境で育ち、

フレンチとはかけ離れた生活をした。

 

その中でかっこいい料理人を何人も見てきて、こうなりたいと思った。

でもそうなるにはどうしたらいいか、わからなかったし、

そもそも相談することなのかも、そもそも相談という単語すら浮かばなかった。

 

その日にある仕込みや料理を調べて、

抜き打ちテストのように聞かれる料理に対しての知識をその場だけでも覚えられるようにした。

 

気づけば、お客さんと接するともっともっと偉大なコックになりたいと思うと同時に、

料理が仕事として、生活をするための手段となり、成長が止まった瞬間も体験した。

 

このままだと、私は成長しない。そう思った。

それが丁度コロナの時期の前で。コロナのときには私は変わり続ける現場と安定しない仕事量、人間関係のもつれ(いじめなど)から会社を辞めた。

 

私は出来れば履歴書に全ての経歴を書きたくない。

ただ0から教えてほしい。経験者としてではなく未経験者として入りたい。

 

明らかに求められている人物や求める自分の理想から、

自分の実力がかけ離れていて、それを埋めようと動けば、

身体のどこかが壊れ、また進もうとすれば、また壊れる。

 

そして今現在、私はいよいよフルタイムを働けなくなった。

 

当たり前に8時間働くということが、

それを続けると言うことができなくなった。

 

悔しさよりも、受けとめきれない。

 

なりたくて無職になってるんじゃない。

むしろなりたくない。アルバイトでもパートでもなりたい。

まるでその二文字が私は働く意思がないかのように私を代弁する言葉と見られているかのようだからだ。

 

働かないやつはいいよな~

 

そんな言葉を見る度に物凄く辛くなる。

 

働けるなら私が身体を代わり、

どんな過酷な環境でも働いてお金を稼いで、

当たり前に生きたい。

 

一流のコックになりたかった。

どんな過酷な環境でも休憩がなくても、

家へ帰っても趣味に費やす時間がなくても、

料理人として大成するまで、全てを投げ打ってでも、

一流になりたかった。

 

でもそれはもう叶わない、どうしようもない夢。

いや辛いけど離さないといけない夢。

 

なんでだ。定年になって、なれなかったなと回想するんではなく、

20代で。バリバリ働けるのが当たり前のこの年で、

未来への希望がなく、生きることすら困難なこんな人生、

何処が魅力的だ。生きる意味など、これで見出す方が難しくないか?

 

それでも生きなければならないのだから、

人生は果てしなく難しい。どこまで行っても、一筋縄ではいかないし、

計画していた通りにはならない。

 

もし神様が私の人生をもう作ったのだとしたら、

その意図を聞きたい。

 

どうしてこんなにも困難な人生を作り上げたのか。

 

家族の中での争いに身体を縮め、精神を病み、

必死に耐えて、誠実にやり続けても、世間は鋭く私を攻撃して、

身体と精神だけがどんどん朽ちて。

 

いつになったら、全ての呪いから解かれて、

幸せだと思える?

 

こんな人生をもし映画化されても、

ハッピーエンドにはならない。

 

それぐらい代償が大きすぎる人生。

それがまだ続くのだから、希望か絶望か。

 

わかりたくもない。

生まれ変わったらこの人生を選ぶか?

私は母にこんなことを言ったことがある。

 

「私はタイムマシーンがあっても、戻りたい過去はない。

 だって幸せだった瞬間がないから」

 

そんな悲しいこと言わないで。母はそう言った。

私は当たり前かのように言えた。朝ごはんは何?と言うようにだ。

 

後でその文字をよく考えたら、

これはとてつもない悲しさと切なさ諦めをはらんでいるものだと気づいた。

 

20代の人が過去への幸福(些細なことでいい。小学校の給食が美味しかったから戻りたいなど)がない、と断定してしまうなんて。

まるでこれからもそんな”とき”など訪れないと予言するように。

 

 

人が一生で経験できるかできないかわからない経験をたくさんした。

身体の故障。精神的な病。家族の中でのじめじめとした空気。

汚い大人たちの見栄の張り合い、悪口。いつも光が見えてはすぐに消えた毎日。

 

それを誇らしいと括れば、美談。

それを不幸だと言えば、ノンフィクションドキュメンタリー。

 

私が望むことは簡単だ。

健康的な身体。成人が当たり前に働ける身体と心。

そして家族が普通にコミュニケーションをとってくれればいい。

 

何も特別なことは望んでない。

家がお金持ちがいいだとか、天才になりたいだなんて言ってない。

 

当たり前の当たり前を叶う世の中であってほしい。

そんな人生がよかった。

 

以前ならここで辞めていたはずだ。

ブログを。

 

どう考えるかはわからない。未来の私がその都度、この物語にピリオドを打つだろう。

ただこの人生を、この不完全な私を、そして家族を、愛せるようになれば、

私は少なくとも憎しみや悲しみといった、辛い感情に支配されることなく、

わが道を進めるに違いない。

 

生まれ変わってもこの人生を選ぶ必要はない。

 

ただ、今生きているこの時間を愛せるようになってください。

海京。

抑うつ状態

数ヶ月前に、抑うつ状態と診断された。

今まで、ずっとうつだろうと思っていた。

少なくとも高校生~社会人になってからの時には自覚していた。

それがようやく医師から告げられた。

 

ようやく名前のついた病名として、

どういう状態が辛いかわかるんだと思うと嬉しかった。

 

3度目のドクターストップを喰らってから、

色々あり、わたしは就活をして内定をもらった。

次の職場では人間関係もなにもかもをうまくこなし、プライベートを充実させたい。

 

心穏やかに、そして笑いの絶えない日々にしたい。そんな私にいまは過去の想い人のことを思い出し、胸を痛めている。

 

どうかその痛みが少しずつ溶けていけば嬉しい。

 

最近は生きたいと小さくでも確かに思いはじめている。

生きたい。何としてでも夢を叶えたい。幸せになりたい。

だから生きたいと強く小さく拳を握るように願っている。

 

こんな簡単な言葉でありふれた到着点なのに、

ここに来るまで随分と遠回りをして、悩んで苦しんで辛かった。

 

でもそれさえも愛おしいものだと気づいた。

私だけの人生。私だけの人生の道。自分で築いた道のり。

 

「時として、誰も想像しないような人物が想像できない偉業を成し遂げる」

――映画 「イミテーション・ゲーム」より引用

 

私が好きな言葉の一つだ。

 

私は映画の中で言えば、脇役にも満たない人物かもしれない。

でも、目立たない私でも人生はあり、家族はいるし、

守りたい大切な友人もいる。

 

だから、私は、夢を叶えるし、

自分がにっこりと幸せな笑みを浮かべるような選択をしたい。

 

どうやって父という存在を家族という存在を整理したか

23年間ずっと家族の問題を自分の問題と思い、

悪ければ自分の罪、良ければ姉、兄、父、母の手柄だった。

 

ここまでネガティブに、堕ちたからなのか、

首をくくった過去も、世の中の家族像に全く添ってなどいない。もはや、最低で。そういうのも、姉との歪な関係も、兄との微妙な関係も、

会話すらぎこちない父との会話すら、も受け入れて、受け入れるのに凄く身体のありとあらゆるエネルギーを放出して、精神的なエネルギーすらも奪われた。

 

受け入れる最中受け入れてが最もつらい。

 

それがどれぐらい続くかわからないから。

 

でもそれがようやく一段落したのか、

今では前と同じく姉が何か攻撃をしても、

私は攻撃する前に心を丸裸にするのをやめた。素直に心を剥き出しにせず、少し警戒して距離を置き、自分に置き換えて苦しむのをやめた。

 

姉は姉。

私は私。

 

うちの家族が誰が見たっておかしいのもイカれてるのももう周知の事実で、それがつらかったけど、もう事実だから。今更壊して再構築は無理だよとどこか自分が認めたとき、最初は空しさで覆われて、悲しかった。

でもいまはどこか、それがあってよかったとは思わないけど、あらゆる感情に巡り会う長旅だったと気づいた。

 

とにかく良くない環境から

心を脱出するためは、

 

あらゆる物事を自分のことと思わないこと

自分以外は自分以外

目にしたくないネガティブな出来事とは離れること

無理に外出して辛いぐらいなら家で静養

 

身体が今すぐ実家を抜けれればすぐに解決するだろう。でも大概はそうはいかないから悩んでて。

 

最も深く辛いのは考え続けることで、

でもそれが自分にとってどんな書物よりも、

財産になる。でも、修行のような地獄だから、あまりお薦めはできないし、

何より命や身体、心が第一だから、

つらかったらそこから少しでも距離を置くということが大事だと思う。