長年生きていた家から離れた。
自分の家を手に入れた。
自分の時間軸でご飯を食べる。家事をする。テレビをみる。趣味に時間を費やす。
長年居た場所からの適応はかなり時間が掛かった。引っ越して2、3ヶ月は、どこかしら具合が悪くて、熱はでないのにだるくて、食欲もなくて、ご飯を作ることさえ出来るかギリギリだった。
驚いた。自分の身体の弱さに、心の弱さに隠れていた私の身体の弱さ。
心もまた何の音も鳴らなくなった瞬間、世界はカラーのはずなのに、自分には一色に見えた。黒でも白でもない。立体さも違うのに、全部が同じなのだ。
実家を離れても尚、私には苦難が降り注いだ。
家族と離れたかった。自分が辛いとき、もう何も聞いてほしくない。具合悪くても自分で静かに自分のペースで無理せずに治していきたいのに、経過を聞かれると強がってしまうから。
離れたはずなのに、心の距離感はどうしたらいいかわからなくて戸惑うことが多い。
子が親元を離れて、一番悲しむのは親だろう。一番心配なのは親だろう。そんなことは自立するかなり昔からわかっていた。
巣から旅立つ、姉や兄に対する寂しさの瞳や背中を見てきたから。どう振る舞えば、両親が悲しむ割合が減るのかずっと見てきた。
どうすれば、少しでも「哀」という感情を減らせるのか、いま思えば、あの頃、ずっと家族の中での負の感情を減らそうとしていたのは私だった。
私に冷酷な心があれば、たぶんある日突然消えていた。でもそれが出来なかったのは、私が消えたあと、果たして家族は家族を支えることが出来るだろうか?
父と母はあれ以上に踏み込んで話すだろうか?
父は母に押し付けすぎないか。母は嫌なことは嫌だと言って行動できるだろうか。
姉は兄との関係を修復できるだろうか。自分だけが傷ついてるといわずに、周りも傷ついてると心の底から思えるだろうか。
ありのままの傷ついた自分を大切な人でいい。さらけだせているだろうか。
兄は姉と話せるだろうか。ちゃんと母のことを見てるだろうか。母から発せられたことが全て本当であると思ってしまわないか。効率、資産のことばかり気にして、自分の中の心の富を蓄積できるだろうか。
そう考え始める時点で結論は決まっていた。
無理だった。
末っ子なんて、甘えさせてもらって何の苦労もしてない。これが世論。
長男、長女がいつだって辛い。これが創作の揺るがないもの。末っ子は我が儘なことが多い。
誰だって苦労している。
けれど末っ子は誰よりも先を見ているから、自分の気持ちよりも家庭を安定させる方法を影で考え、支えているのに。
誰も知らない。
姉や兄が進学したから私が行くことを早く諦めたことも、母が病気になり、小さい頃甘えることができないと悟ったこともどうでもよかった。どうしようもない運命だから。
だけど、家族の微妙な綱を支えているのは私だけという事実が一番辛い。
話しにきてはいる。姉は兄は。
でも当たり前だがいない間に問題は起きていて、それを話さなくなっていく。それを私が兄や姉に言えたらいいのにな。
言えない。何でだと思う?
姉は自分が一番辛かったと泣く。
叔父からお前が母親代わりになれといわれたあれから辛かったと目の前で泣いた。
何をするにも間に挟まれる人。母に似た優しい性格と父に似た頑固で強がるところ。本当は脆くて壊れそうなのに、いつも切れそうなロープの上を綱渡りしている。
兄は自分を抑えることができない。
自分の意見だけ述べて、人の意見を聞く振りをするけれど、言うことを聞かず、その割にできない約束もする。自分を大きく見せる。
お酒が強いだとか、知識が豊富だとか、勤めているところの自慢も。
誰も大きく見せなくても兄が立派だと知っているのに。
実家を出て、私は半分普通になった。でも半分イカれている。
病院に入院していたら何かしらの治療方法を先生から伝えられ、リハビリしたり、病院のスタッフの方や看護師さんと関わりながら治していけるだろう。
でも家にいる場合は?外傷もなく、心の病気だと言われたら?月1度の通院。薬の服用。カウンセリング。じわじわと状況は変わる。変わっていくけれど、自分の中でようやく1段階変わったときにはもう外の世界は数年経っていることなんてザラだ。
思考や行動は大人らしいと言われても、
当たり前に働いて、給料日を楽しみにして、貯めたお金で旅行へ行ったり、少しいいジーンズを買ったり、したいのに。
私は心の病気でも、たぶんわかりにくいタイプなのかもしれない。
ある意味神経質すぎて計画を立てすぎたり急かされて辛くなるのは少し行き過ぎだが、
それ以外はなにもないように見えるのだ。
ただ真面目でしっかりもの。
これだけ。個性があるようでない。半透明。
進み方なんて歩くだけなのに、余りにも見えない壁が多すぎる。
家族に過去のトラウマ。昔、パートのおばさんからいじめを受けてあれ以来、何の罪もない人まで、その瞳や顔を見るだけで自分に悪口を言うんじゃないか、変な目で見られるのではないかと怯える。
自分の家にいるのに、マナーも守っているにも関わらず、ある日突然、ドアを叩かれて、叱られないかと恐れおののいている。
早く当たり前に歩ける人にならないといけないのに、先生は焦らなくていいという。
でも世間は甘くない。休んでいれば、「いいね休めて」と細い目で見られる。
今こそ言われなくなったが、でも、
「心の病気なんてわたしだって持ってるし、ちょっとしたことでつまずくなんて、弱すぎない?」
そんな風に書いているコメント。
世の中はいかに世が変化したか声高らかに言う。
でもそれが大声であればあるほど、事実とは真逆だったりする。
長年の偏見や根付いた心理状態というのはたった数年で変わらないのだ。
変えるために発信も必要なのもまた事実だが。
今は余りにも1人の声が大きい。
それで表面化する問題もある。それは良いこと。
でもそこまで変えなくてもいいことを1人の発言で簡単に変えてしまう。
世の中は、一体、これからどんな形になっていくのだろう。
年金や国のことも心配だが、
益々私たちは、辛い何かを浴びていく時代になった気がしてならない。
果たして私は、過去の出来事が混ざった悪夢から目覚めたあの恐怖を味わわなくて済むだろうか、。
誰かに怯えすぎる気持ちと、何かに挑戦するときに身体が動かなくなるなんてことを体験せず、生きていけるだろうか。
1日でも早く、懸命に走っていたあの頃に戻れるだろうか。当たり前のことを当たり前に出来て、ホッと出来る日は来るだろうか。