結婚。出産。
この言葉は、女として産まれた私が、
避けて通ることのできない言葉だった。
でも私は「結婚願望ないし」「私の血筋引いたら、子供は苦労するから」なんて言って、その場をしのいできた。
私は時々、LGBTQの映画を観る。
映画に自分と同じような境遇や立場のキャラクターが居ると、
私が存在してもいいことの証明な気がして、
ひたすらそのキャラが主人公、あるいは友人として出る、
そういう映画を観るときもある。
ただ単に、共感したいだけかと思った。
でも泣き腫らした今思う。
何気なく生きている日常で、
人は何かを削られ続けている状況で、
笑い、喜び、喜や楽の感情を貼りつけて、
怒哀の感情を押し殺しながら生きている。
そのうえで、
私は、女の子が好きだということで、
特段、傷ついたことはないと思っていた。
確かに否定されたりはしてきた。
でもそれはほんのかすり傷だと思った。
けれど、それは確かな傷跡になり、
時々謎に痛む火傷跡のような形として、
心臓に刻まれていることに今日気づいた。
「いずれ女の子とこの先もと、思うなら、
言わなきゃね」と兄は言った。
そして兄はこうも言った。
「性転換した人もいるし、困ったら言って」
それはつまり、唯一言ってない父へのカミングアウトへの背中押しを意味していて、
周りから見れば親切心だと思うけれど、
私からすれば、”恐怖と強制”を感じた。
父は私に「お前は普通で居てくれ」とボソッとある日言った。
あれ以来、私は「普通だ」と演じることを決めた気がする。
女の子が好きだと分かっていても、
心の中で認めなかった。
ボーイッシュな格好をしてしまう自分を
嫌悪感で包んで、どうにかしようとした。
今は寛容な時代だとみんな口を揃えて言うけれど、
それはみんなが無関心になっただけであって、
思ったよりも時代は、法律は、進んでない。
私は女の子と結婚をして、
子供を育てたいと意思が、私の目の前に立ちはだかった時、
見て見ぬふりをしようとしたのに、
できなかった。
兄は、女の子が好きで、
普通に結婚して、それは祝福される結婚。
でも私の場合は、
親にカミングアウトして、それをまず理解してもらってから、
相手を見てもらって、了承を得ないといけない。
必ずしも、了承するとも限らないし、
周りの目が全てポジティブな方向に動くとも限らない。
私は普通の兄に嫉妬したんだと思う。
自分の性自認も曖昧で、
探し求めても、どれが私かなんて、
そんな方程式はなくて。
途方もなく、ゴールもなく、
戻ることもできない道。
何度も考えた。
中性なのか、女の子の中でのボーイッシュなのか、
性別を変えたいのか。
でもわからない。
気分によって変わったり、場所によって、
「男の子だったらこうできたのに」
「女の子だからこうできている」と思えてくるから。
曖昧すぎる全てが私を苦しめている。
これはまだハッピーエンドを見つけていない、
私の日記。