晴れを待ちわびて

トラウマを抱え、自律神経失調症になり、現在抑うつ状態と診断され、懸命に毎日生きていく日常ブログです。

死というのを間近で見たとき

私が高校1年生の時にお爺ちゃんが無くなった。

父方のお爺ちゃん。余り話さず、ソファに横になって眠っているのが多かった。

 

私は、ほとんど話したことがなかった。

いつも嬉しそうに話すのはお姉ちゃんとだけだった。

 

そんな爺ちゃんが危篤状態だと知ったのは、

芝居の稽古中だった。私は演劇部の初舞台でW主演だった。

 

私は休みの合間に、

病院へお見舞いに行った。

 

その時の爺ちゃんは、

血が通っていないように白かったような気がする。

 

見るだけで涙が湧いてきた。

 

それから爺ちゃんは亡くなってしまって、

本番直前の練習に私は出れず、

葬式に出席した。

 

正直、話したこともない爺ちゃんの葬式で

泣かないと思っていた。

 

だけど、私は葬式が始まってすぐ

息もできないほど、ボロボロと泣いた。

 

棺桶に入った爺ちゃんを見るのもためらってたけど、

どうにかお母さんと一緒に見た。

 

それから爺ちゃんが2階に運ばれていて、

そこで皆とご飯を食べながら、

爺ちゃんの話をしていた。

 

当時私は何で、遺体があるのに、

食事できるのかしていいのかわからなかった。

 

故人の思い出を振り返ることの場所。

というのが分からなかった。

 

小さい子供は無邪気に走り回っていて、

私は親戚など来た人にビールを注ぎに行ったり、

隠れて台本を読んでいた。

 

丁度その時の役が、

友達を亡くすという役だった。

 

顧問の先生から「死というのは何なのか見てきなさい」と言われた。

 

本番の時だったか、

その前だったか、私はその舞台で泣きかけた。

 

本番ではその友人が亡くなった時、

大声で名前を呼んだ。

 

それは本当の意味での哀しさが詰まった声で、

演じながらびっくりしたのを覚えている。

 

それから数年は、

爺ちゃんは死んでなくて、ただ帰ってきてないだけに感じた。

 

その数年後、お父さんのお兄さん、

私から見ておじさんが亡くなった。

 

おじさんは凄くやせ細っていて、

会話も余り出来ず、私はその姿を見るに堪えなかった。

 

 

つい先日、友人の親戚が亡くなったと聞き、

その話を思い出した。

 

おじさん、お爺ちゃん、

私達の世界を見ている?

 

2人が居なくなって、

親戚同士はギスギスしているんだよ。

 

どうしよう。家族も壊れてるのに、

親族も壊れている。

 

こんな私でも、

壊れた私でも、誰かを愛せるかな。